日々、お茶のある暮らしを重ねて

ご挨拶

若竹園は、明治11年(1878)10月に創業いたしました。来年秋からは140年目を迎えます。おかげさまで大分では老舗の茶卸、販売の会社として商いを続けております。新しいホームページ開設を機に、140年ちかくの時の流れを先代からの仕事ぶりを含め今回振り返り、その上で今と未来の若竹園を描いてみようと思います。

牧新旭園

明治のはじめ、初代牧末太郎が現在の大分市新貝に「牧新旭園」と名付けた店を開きました。 当時は乾物、絹や紬の織物などを持ち、宮崎の高千穂、五ヶ瀬から椎葉村あたりまでを商いし、帰りにそれらの村あたりで採れるお茶、椎茸などの乾物を買ったり交換したりしていたそうです。

大正から昭和にはいると、二代目の牧信吉が商売を広めていき、街の中心部に進出。現在の府内町トキハデパート側に店、家屋を建てました。 戦時中の物資統制で商品が入りにくくなったとき、長年の取引先である宮崎県の山奥の生産者がお茶や椎茸を調達して送ってくれたそうです。 昭和20年の空爆で店も家も全焼。しかし終戦後近くの家屋5軒分を買い取り、商売を再開しました。

茶舗の主人信吉から是非とも「養子になりうちの娘と結婚し、後継者になってほしい」と望まれ、昭和31年に迎えられた青年が当時、証券会社で活躍していた牧二郎(旧姓中原)です。信吉は二郎を大変に重んじ、情愛深く導いてくれました。 しかし、二郎と娘燿子が結婚してちょうど1年後に信吉は病いに倒れ、家族一同の献身的な看病もむなしく他界。63歳でした。

27歳にして三代目を継承した牧二郎は、義母トシから茶舗の仕事を学びながら商売の道を歩み始めました。 静岡、京都、九州では八女地方、鹿児島など名だたるお茶の産地に通い、取引先に顔を覚えていただき、お茶の知識を必死に吸収する日々。二郎は責任の大きさに武者震いをし、仕入れ、販売、帳簿つけなどを率先して行いました。 販売では小売り主体から卸へと目を向け、御用聞きに配達制度を取り入れました。若さにまかせ、バイクの後ろに茶箱を積んで市内を営業していく熱意で、県庁市役所や企業、街のマーケットなど次々とお得意先を開拓していきました。

牧若竹園茶舗

昭和35年頃からは大分・鶴崎臨海工業地帯の整備が始まり、新産都大分に明るい展望が開けてきました。 府内町周辺にも若松通り商店街の活性化が進められてきました。 そこで二郎はこれまでの屋号を「牧若竹園茶舗」と改めています。 現在の若竹ビルも当時、難題に突き当たりながらじっくりと近隣の人たちと話し合い、計画をまとめあげたことで無事に完成した建物でした。

昭和53年、若竹園は創業100周年を迎えました。大分で次の一世紀を刻んでいく企業として、なにをなすべきか。社内にプロジェクトチームをつくり、まず社員全員に記念賞与を支給。お客様には落語漫才「爆笑名人会」を開催して4000人をご招待し大いに喜んでいただきました。

さて、プロジェクトの最後は本店大改装を叶えるため積立てをする事でした。 その夢は平成元年10月、新生「ばらえTea若竹園」の誕生で花咲いたのです。

ばらえTea若竹園

二郎には後継者として二人の息子がおりました。長女の夫で牧家に入ってもらった通(とおる)と長男の私、信太郎です。 「ばらえTea若竹園」は二郎の膝元で商売を覚えてきた若き通、信太郎が共に手腕をぞんぶんに振るえる場でもありました。

いま、若竹園は大分市府内5番街の本店「ばらえTea若竹園」を中核として の店舗を構えております。 取扱い商品はお茶、茶道具はもちろん、珈琲、紅茶、ハーブティなども揃えてあります。抹茶ソフトやお茶割りなどを好む若いお客様層も広がりました。

四代目の通からバトンを受け、私は現在55歳となりました。 未来に夢をもち、これからも伝統的なお茶文化を大切にしつつ、新たなお茶の楽しみを提供し、「お茶のある暮らし」を柔軟に探求してまいります。

会社概要

会社名
株式会社若竹園
代表者名
牧 信太郎
住所
大分県大分市府内町2丁目4番5号
電話番号
097-536-3337
資本金
1,000万円
従業員数
40名(パート・アルバイト含む)
事業内容
日本茶小売・卸、喫茶